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わたし

新田の伊七と神田伯龍 その2(3代目伯龍?もしくは4代目?)

前回の発端に引き続き、

新田の伊七と神田伯龍について、関係事項をまとめてみました。


●伊七と伯龍関連年表

新田の伊七と神田伯龍、天保水滸伝にかかわる事件や主要人物の没年を一覧
伊七と伯龍関連年表

・主な出来事 

 天保水滸伝にかかわる事件や主要人物の没年を記載 ※1

・新田の伊七

 講談の中で語られる「70過ぎまで生きた」を元に推定没年を記載

・神田伯龍

 人名辞典※2 を参考に1~6代目までを列記。その生没年と伯龍を名乗った時期を記載。不明点が多い人物については名乗った時期を推定。東京と大阪で存在していた講釈師名のようですが、佐原の寄席に出演した、という情報を基に東京の代としました。また、新田の伊七が生存していた時期を考慮し明治後期以降を省略しています。



●推考

新田の伊七が1900年頃まで存命だったとすれば、平手造酒に斬られた傷を自慢した相手である神田伯龍は1~4代目と可能性は広い。ただ、事件後すぐにそんなことをするとは考えにくい。繁蔵、助五郎、成田の甚蔵など主たる人物がこの世を去り、事件のほとぼりがさめて数十年、伊七も年を取り、昔を懐かしみながら自慢げに「この傷は…」と回顧する頃であったのではないかと想像する。

すると、3代目、または、4代目なのではないか?と絞り込まれてくる。しかし、微妙すぎてどちらとも判断がつかない。

わたし的には4代目なのではないか?と睨んでいるのですが、みなさまはどう推理しますか?



調べ物は続きます。

次回は少し角度を変えて、佐原の寄席について書いてみようと思います。


<つづく>



参考文献

※1 野口政司/著『実録天保水滸伝』1973年刊

※2 講談社『日本人名大辞典』

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