江戸っ子講談師?
こんにちは
雨の続く毎日です。こんな日は寄席におこもりしたくなりますね。
この間、落語を聴きながら、ふと思ったことがあります。
はじめて見る前座さんだったので、気になって調べてみたところ、柳家小里ん師匠のお弟子さんの小多け(こたけ)さんでした。落語もしっかり、落ち着いていて、高座を大切に勤めらてている様子に、ご本人の身構えももちろんのこと、師匠のお仕込がよいのだなぁと感心し、とても気持ちいい時間を過ごすことができました。
さて、わたしが江戸っ子だなぁと思う落語家さん、それは先ほどの柳家小里ん、そして桂藤兵衛の両師匠です。あくまで個人的な印象です。演芸好きなら誰もが一度は「自分が入門するんだったら、どの師匠?」と考えると思います(笑)。わたしは藤兵衛師匠がいいなぁ!と勝手にニヤニヤ。「めんどくせぇなぁ~」とか言いながら世話を焼いてくれそうなイメージがあります。でも怒ったらめちゃくちゃ怖そう、とも思うのですが、珍しい噺をたくさん持っていらっしゃるし、なんて。
話が横道にそれてしまいました。
江戸っ子、江戸落語の演者さんなら、その佇まいや心持ち、言葉使いを研究したり、自らもそれに近い存在になろうとしたりされると思います。それが江戸落語の世界観を充実したものにしてくれます。
そこで、思ったのです。
講談師に江戸っ子らしさを求めるか?
いや、求めない。
それはなぜだろうか?
では、何らしさを求めるのか?と。
それは扱う物語の内容なんだろうな。
落語は日常、生活。
講談は非日常、歴史。
市井の江戸っ子が活躍する話しであるからこそ、江戸っ子らしさを求めるのが落語。戦記や歴史の事件を扱う講談には、格調高さや説得力ある語りの強さを求めてしまいます。そう、強いて言うならば”先生らしさ”でしょうか。
ここまで考えて、ああ、講談師を”先生”と呼ぶのはもっともだ!と納得しました。
そろそろ義士物(忠臣蔵)が高座に増える時期となりました。「講釈師 冬は義士 夏はお化けで飯を食い」という川柳どおり、夏は四谷怪談にどっぷりはまったのですが、義士物は…少々苦手なわたしです…どうなりますやら。
では!